性格そのままにまったりだらだらと。。。日常生活を綴っています
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父は達筆で、筆まめな人で(伯母も叔母も書道家)
昔から、その日の天気や気温によって、お店で作る和菓子の種類や量をメモしていて、
去年は、この天気は結構売れているとか、売れなかったなど
こういう天気は、調合を変えてみようなど
仕事上のことを大判の手帳に書きつけていました。
仕事を辞めてからも
天気と気温を毎日メモし、孫から手紙がきたとか
最期は、食事の量や薬の量など
ペンが持てなくなるまで
ささいなメモを書き遺していました。
父が亡くなった後、父の手帳に
誕生日の日付けで
「これが最後の誕生日かもしれないので、自分の人生を回想しておこう」との記述がありました。
まず最初に
子供の頃のいちばん嬉しかった思い出として
学徒動員で工場に行っていたとき、赤痢になり
お父さんが、食事もせずに慌てて駆けつけてくれて
その頃はほとんど手に入らなかった小豆を使って、お菓子を作って持ってきてくれて
あまりにも美味しくていまだにその味を覚えている。
何一つ親孝行できなかったことを後悔している、と
これが父の一番の思い出?と驚きました。
父は、祖父のことは苦手で嫌いだと勝手に思っていました。
祖父は、手広くいろいろな仕事をしていて
父のために家の近くに小学校を作ったり
叔母が雨の日、遊べないのを可哀想に思って、小学校に体育館を寄付したり
政治家を書生さんのころから家に住まわせてたり
社会に貢献することにお金を惜しみなく使う人でした。
その反面、複数のお妾さんと子供が外にいたため
祖父が亡くなった後、祖母は、1軒ずつ回って
住んでいる家とお金を渡して、縁を切ってもらったという話もあり
叔母などは「立派なお父さんをお持ちですね」と人には言われるが、
決して家族にとっては立派な人ではなかったと言うし
父も「自分が何をしたところで、お父さんのおかげで と言われるのが嫌だ、自分の努力など世間の人は認めない」と言っていたし
大学へ行けと祖父に言われたものの、
ジャズが好きで音楽をやっていて(叔母曰く、ぐれていた)大学に行かなかったり
(晩年、お父さんの言うことを聞いて、大学行けばよかったと言っていたが)
なのに、父親のことをこんなふうに思っていたのか
父を迎えにきたのは祖父だったのか?
私はてっきり祖母や伯母が迎えに来てくれるものと思っていたけれど、
父は学生時代迎えに来てくれた同じ生きるか死ぬかの状況で
祖父が迎えに来てくれるのをベッドの上で待っていたんだろうか?
母に対しても
誕生日に一度もプレゼントを贈ったことはなかったが
世界各国、旅行に行けたこと、日本中あますことなく旅行へ行けたことが
とても楽しかった。
娘3人には、何一つ残すことが出来ず、甲斐性のない父親で申し訳ないとあり
孫には、「出世してください」と一行だけ書き記されていました(笑)
商売を50年以上できて、
最初からいろんな人に助けられて、一度もお金や食事の心配をすることなく
つまずくことなく仕事が軌道にのって、しあわせな人生だった と
叔母は、父に対して
若いころから好き勝手に生きて
お金も残さず、最後まで遊びまわって(4月まで温泉旅行に行っていた)
入院もせずに家で最期を迎えられて
こんな幸せな人生おくれる人は、なかなかいない。
本人も十分満足しただろう。
父はほんとうに幸せな人だったと思う。
小売りの小さな商売でも生活できる右肩あがりの時代に、
好きに商売ができて
夜の10時まで仕事をして、朝の2時から仕事をしていたこともあったほど
繁盛するお店を切り盛り出来て、
たくさんの人から惜しまれながらお店を閉店できたことも
父の誇りだっただろう。
後継ぎがないことを寂しがっているかもしれないが
この時代、後継ぎがいたとしても、今は小売りが食べていける時代ではなく
跡は継がさなかったと思う。
出世できた娘は一人もいなかったが
ずっと自慢の種だった孫は無事に成人し
あー幸せな人生だった と思い残すことなく
天国へ旅立ったのだと思いたいと思います。
昔から、その日の天気や気温によって、お店で作る和菓子の種類や量をメモしていて、
去年は、この天気は結構売れているとか、売れなかったなど
こういう天気は、調合を変えてみようなど
仕事上のことを大判の手帳に書きつけていました。
仕事を辞めてからも
天気と気温を毎日メモし、孫から手紙がきたとか
最期は、食事の量や薬の量など
ペンが持てなくなるまで
ささいなメモを書き遺していました。
父が亡くなった後、父の手帳に
誕生日の日付けで
「これが最後の誕生日かもしれないので、自分の人生を回想しておこう」との記述がありました。
まず最初に
子供の頃のいちばん嬉しかった思い出として
学徒動員で工場に行っていたとき、赤痢になり
お父さんが、食事もせずに慌てて駆けつけてくれて
その頃はほとんど手に入らなかった小豆を使って、お菓子を作って持ってきてくれて
あまりにも美味しくていまだにその味を覚えている。
何一つ親孝行できなかったことを後悔している、と
これが父の一番の思い出?と驚きました。
父は、祖父のことは苦手で嫌いだと勝手に思っていました。
祖父は、手広くいろいろな仕事をしていて
父のために家の近くに小学校を作ったり
叔母が雨の日、遊べないのを可哀想に思って、小学校に体育館を寄付したり
政治家を書生さんのころから家に住まわせてたり
社会に貢献することにお金を惜しみなく使う人でした。
その反面、複数のお妾さんと子供が外にいたため
祖父が亡くなった後、祖母は、1軒ずつ回って
住んでいる家とお金を渡して、縁を切ってもらったという話もあり
叔母などは「立派なお父さんをお持ちですね」と人には言われるが、
決して家族にとっては立派な人ではなかったと言うし
父も「自分が何をしたところで、お父さんのおかげで と言われるのが嫌だ、自分の努力など世間の人は認めない」と言っていたし
大学へ行けと祖父に言われたものの、
ジャズが好きで音楽をやっていて(叔母曰く、ぐれていた)大学に行かなかったり
(晩年、お父さんの言うことを聞いて、大学行けばよかったと言っていたが)
なのに、父親のことをこんなふうに思っていたのか
父を迎えにきたのは祖父だったのか?
私はてっきり祖母や伯母が迎えに来てくれるものと思っていたけれど、
父は学生時代迎えに来てくれた同じ生きるか死ぬかの状況で
祖父が迎えに来てくれるのをベッドの上で待っていたんだろうか?
母に対しても
誕生日に一度もプレゼントを贈ったことはなかったが
世界各国、旅行に行けたこと、日本中あますことなく旅行へ行けたことが
とても楽しかった。
娘3人には、何一つ残すことが出来ず、甲斐性のない父親で申し訳ないとあり
孫には、「出世してください」と一行だけ書き記されていました(笑)
商売を50年以上できて、
最初からいろんな人に助けられて、一度もお金や食事の心配をすることなく
つまずくことなく仕事が軌道にのって、しあわせな人生だった と
叔母は、父に対して
若いころから好き勝手に生きて
お金も残さず、最後まで遊びまわって(4月まで温泉旅行に行っていた)
入院もせずに家で最期を迎えられて
こんな幸せな人生おくれる人は、なかなかいない。
本人も十分満足しただろう。
父はほんとうに幸せな人だったと思う。
小売りの小さな商売でも生活できる右肩あがりの時代に、
好きに商売ができて
夜の10時まで仕事をして、朝の2時から仕事をしていたこともあったほど
繁盛するお店を切り盛り出来て、
たくさんの人から惜しまれながらお店を閉店できたことも
父の誇りだっただろう。
後継ぎがないことを寂しがっているかもしれないが
この時代、後継ぎがいたとしても、今は小売りが食べていける時代ではなく
跡は継がさなかったと思う。
出世できた娘は一人もいなかったが
ずっと自慢の種だった孫は無事に成人し
あー幸せな人生だった と思い残すことなく
天国へ旅立ったのだと思いたいと思います。
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start:2005年7月17日
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HN:
momosuke
性別:
女性
自己紹介:
家にいる時は
だらだら、のんびり。主婦業もマイペースです。
(。'(ェ)'。)ノ.。・:*:・°'☆♪
*好きなもの*
本・映画・旅行・男前・テレビ・
大沢たかお
*着うた*
SMAP
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