性格そのままにまったりだらだらと。。。日常生活を綴っています
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父が亡くなりました。
あと1ヶ月で、87歳の誕生日。
来月に予定していた米寿のお祝いの会を楽しみにしていたのに。
もっともっと悲しいかと思っていたけれど
急な死ではなかったため、意外にショックはなく
自然なことと受け止めています。
亡くなる1週間前の週末
姪と2人で帰省しました。
4月に会った時からは想像できないほど変わり果てた父の姿でした。
前日までは3食食べていたらしいのですが
その日から2食しか食べられなくなっていました。
喉がつまるそうで、食事がとれなくなっていて
声もほとんど出ないため、何を言ってるのか聞き取れません。
それでも、トイレにも行っているし、食事もダイニングまで歩いてきて取っていました。
日課の散歩は、もう行けなくなっていました。
頭はしっかりしていてまったくボケていないし
痩せ細った体を「こんなんやでー」と笑って見せるほどの元気もありました。
東京へ戻るときは
「これが最後やな」と泣きながらも、ダイニングの椅子に座って見送ってくれました。
なくなる4日前、姉から「もう食事できなくなった、だめかもしれん」と連絡があり
金曜日、会社を休んで帰省しました。
意識はあって、私が「帰ってきたでー」と声をかけたら
笑ってくれました。
すでに声も全然でなくなっていて、
小さな氷を一日数回なめる程度が食事でした。
とても辛そうで悲しそうで
土曜日、とうとう水が呑み込めなくなり、氷もなめられなくなりました。
この暑さの中、喉が渇いても氷すらなめられない。
どんなに辛かったか。
1週間前、「これが最後やなぁ」と言った父に
「どんなに辛くても頑張って生きていてほしい、
おばあちゃんや伯母ちゃんが迎えに来ても絶対断ってや
もっとずっとずっと長生きしてほしいねん」と私が言ったことを
父はしっかり聞いてくれた、
比較的裕福な家に育ち、戦争中でも食べるのに困ったことがなかった父が
牛肉が大好きで、三島亭の牛肉を毎週のように食べていた父が
何も食べられず、水すら飲めない状態で
どんなに惨めで辛い思いをしているだろうと思うと
何でがんばれと言ってしまったのか、先週まだ元気なうちに死にたかったろうに。
娘のわがままを聞いて、頑張って生きている。
土曜の夜から高熱が2日続き、本当に辛そうで。
今さらながら「おばあちゃん、伯母ちゃん、はやく迎えにきて」と願っていました。
月曜の朝、訪問看護士さんから、
脈が弱くて取れなくなっているので、今日でお別れの可能性があるとの話があり
自宅で看取るときのお話と、そのあとの手順など説明を受けました。
東京の姪に電話して帰ってくるように伝え
大学に通っている甥もお昼前に戻ってきました。
叔母と本家の長男が来てくれました。
夕方、姪が帰ってきました。
父が急に胃液?のようなものを吐き、病院に電話したところ
口の中を拭いてきれいに拭ってくださいということでした。
比較的落ち着いていて、晩御飯後に
姪が父のベッドのそばでTVで見ているとき
「おじいちゃんの目が開いてる!」と気づき
家族で取り囲むと、呼吸が止まって、手足も冷たくなってきていました。
声をかけたら、また呼吸が動き出して
「なんや、びっくりしたやんか」と笑っていたら、また呼吸がとまり
その後、口が開いて何か言いたかったのかどうか
舌がうごいたあと、呼吸が完全にとまりました。
家族でみんながそろうのを待っていたかのように
父は亡くなりました。
父はいろいろと準備をしていて
葬儀も家族だけの簡素なもので、とのことだったので
お棺に入った後、町内の方が弔問にきてくれ
家を出て葬儀所に向かう時には
家の前に20人ほど集まってお見送りしてくれました。
自分の建てた家から、みんなに見送られて
家から旅立つことが出来て、幸せな最期だったと思います。
家族だけということでしたが
親戚があつまり、久しぶりにいとこが顔を合わせて
楽しい通夜・葬儀となりました。
父や母が亡くなったら、こうしていとこが集まることもなくなるんだなぁと思うと
さみしく感じました。
あと1ヶ月で、87歳の誕生日。
来月に予定していた米寿のお祝いの会を楽しみにしていたのに。
もっともっと悲しいかと思っていたけれど
急な死ではなかったため、意外にショックはなく
自然なことと受け止めています。
亡くなる1週間前の週末
姪と2人で帰省しました。
4月に会った時からは想像できないほど変わり果てた父の姿でした。
前日までは3食食べていたらしいのですが
その日から2食しか食べられなくなっていました。
喉がつまるそうで、食事がとれなくなっていて
声もほとんど出ないため、何を言ってるのか聞き取れません。
それでも、トイレにも行っているし、食事もダイニングまで歩いてきて取っていました。
日課の散歩は、もう行けなくなっていました。
頭はしっかりしていてまったくボケていないし
痩せ細った体を「こんなんやでー」と笑って見せるほどの元気もありました。
東京へ戻るときは
「これが最後やな」と泣きながらも、ダイニングの椅子に座って見送ってくれました。
なくなる4日前、姉から「もう食事できなくなった、だめかもしれん」と連絡があり
金曜日、会社を休んで帰省しました。
意識はあって、私が「帰ってきたでー」と声をかけたら
笑ってくれました。
すでに声も全然でなくなっていて、
小さな氷を一日数回なめる程度が食事でした。
とても辛そうで悲しそうで
土曜日、とうとう水が呑み込めなくなり、氷もなめられなくなりました。
この暑さの中、喉が渇いても氷すらなめられない。
どんなに辛かったか。
1週間前、「これが最後やなぁ」と言った父に
「どんなに辛くても頑張って生きていてほしい、
おばあちゃんや伯母ちゃんが迎えに来ても絶対断ってや
もっとずっとずっと長生きしてほしいねん」と私が言ったことを
父はしっかり聞いてくれた、
比較的裕福な家に育ち、戦争中でも食べるのに困ったことがなかった父が
牛肉が大好きで、三島亭の牛肉を毎週のように食べていた父が
何も食べられず、水すら飲めない状態で
どんなに惨めで辛い思いをしているだろうと思うと
何でがんばれと言ってしまったのか、先週まだ元気なうちに死にたかったろうに。
娘のわがままを聞いて、頑張って生きている。
土曜の夜から高熱が2日続き、本当に辛そうで。
今さらながら「おばあちゃん、伯母ちゃん、はやく迎えにきて」と願っていました。
月曜の朝、訪問看護士さんから、
脈が弱くて取れなくなっているので、今日でお別れの可能性があるとの話があり
自宅で看取るときのお話と、そのあとの手順など説明を受けました。
東京の姪に電話して帰ってくるように伝え
大学に通っている甥もお昼前に戻ってきました。
叔母と本家の長男が来てくれました。
夕方、姪が帰ってきました。
父が急に胃液?のようなものを吐き、病院に電話したところ
口の中を拭いてきれいに拭ってくださいということでした。
比較的落ち着いていて、晩御飯後に
姪が父のベッドのそばでTVで見ているとき
「おじいちゃんの目が開いてる!」と気づき
家族で取り囲むと、呼吸が止まって、手足も冷たくなってきていました。
声をかけたら、また呼吸が動き出して
「なんや、びっくりしたやんか」と笑っていたら、また呼吸がとまり
その後、口が開いて何か言いたかったのかどうか
舌がうごいたあと、呼吸が完全にとまりました。
家族でみんながそろうのを待っていたかのように
父は亡くなりました。
父はいろいろと準備をしていて
葬儀も家族だけの簡素なもので、とのことだったので
お棺に入った後、町内の方が弔問にきてくれ
家を出て葬儀所に向かう時には
家の前に20人ほど集まってお見送りしてくれました。
自分の建てた家から、みんなに見送られて
家から旅立つことが出来て、幸せな最期だったと思います。
家族だけということでしたが
親戚があつまり、久しぶりにいとこが顔を合わせて
楽しい通夜・葬儀となりました。
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start:2005年7月17日
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性別:
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自己紹介:
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だらだら、のんびり。主婦業もマイペースです。
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*好きなもの*
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*着うた*
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