性格そのままにまったりだらだらと。。。日常生活を綴っています
本日、退院。
すごい!
入院後、2週間の日に先生から、いつでも退院できますとお話があり
きょう無事退院しました。
入院時は年齢的に3週間とか1ヶ月かかると言われていましたが
手術から2週間の退院となりました。
手術する前はもうこれで終わりかと思ったけれど
いまの医療技術はすごい。
85歳なのに、手術前と変わらず元気です。
腹腔鏡手術の回復の速さ、術後も動くと皮膚が引っ張られるのが気になると言っていたものの
ほぼ痛みがなく、もちろん肛門と尿のチューブがついたままの状態が
数日続いたため気持ちの悪さや痛さはあっただろうに
それでもチューブが外れてからは、まったく普通の入院生活で
食事も普通。
先生からのお話の際に
切り取ったリンパの組織検査の結果がでて
周辺リンパへの転移が0だったので、他の場所への転移は今のところ見られないという
うれしい結果が出ました。
この年齢で化学療法はきついし、そうなれば諦めるしかないかと思っていたので
ほんとうによかった。
切り取った癌の画像も見せていただきましたが
周辺リンパを合わせて20cmの大きさで、重さでいうと1kgほどを摘出したと言う。
こんな大量のものをお腹の4cmの切り口から取り出すなんてすごい。
切除した腸の接着が問題なく
人工肛門の心配もなくなりました。
ガンの切除
リンパの転移
人工肛門
この3つをすべてクリアできて、先生方が丁寧に手術していただいたおかげで
感謝しかありません。
母は毎日残さず食事もとれるようになったのですが
先生からは「残さず食べなくていいです、これ以上太らないで」と注意を受けました。
母と、上の姉はまったく同じ体型で
お腹だけが中年のおじさんのようにぽっこり、それも妊婦かと思うほどで
どうしてあんなになったのか、七不思議。
手術の際も、先生がお腹の脂肪で腸まで届くのが大変だったと苦言もあり
リハビリ病院にいたときも、お腹が大きすぎて屈んだり腹筋を使うことが出来ないと言われました。
先生からは、お腹が大きくなったら皮がはちきれて、傷口ぱかっと開くこともありますよ!と
今後の注意を受け、
太っていると体に負担をかけていろんな病気になりやすく
何を食べてもいいけど、たべる量は気を付けてと説明され
きょう、退院のご挨拶のときにも
体重を増やさないように、太らないようにと再度注意をうけました。
私より10cm低いのに、わたしより体重あるし
はじめは気を付けても、すぐに忘れちゃうからなぁ
運動というのもしたことがないので、
もっと歩かないとといううものの、すり足が癖で、足を上げて歩くことが出来ず
あまり運動にはならないし。
昨年9月から始まった私の病院詣もやっと終わりましたが
腸が短くなった分、便意を我慢できずすぐ漏らしてしまう危険があり
肛門に数日チューブを入れていたため
肛門が緩くなって便意を感じないまま出ることがあり
日中ひとりではなかなか生活しづらいし
お出かけに付き添いも必要だろうし、実家通いが終わることはなさそうです。
すごい!
入院後、2週間の日に先生から、いつでも退院できますとお話があり
きょう無事退院しました。
入院時は年齢的に3週間とか1ヶ月かかると言われていましたが
手術から2週間の退院となりました。
手術する前はもうこれで終わりかと思ったけれど
いまの医療技術はすごい。
85歳なのに、手術前と変わらず元気です。
腹腔鏡手術の回復の速さ、術後も動くと皮膚が引っ張られるのが気になると言っていたものの
ほぼ痛みがなく、もちろん肛門と尿のチューブがついたままの状態が
数日続いたため気持ちの悪さや痛さはあっただろうに
それでもチューブが外れてからは、まったく普通の入院生活で
食事も普通。
先生からのお話の際に
切り取ったリンパの組織検査の結果がでて
周辺リンパへの転移が0だったので、他の場所への転移は今のところ見られないという
うれしい結果が出ました。
この年齢で化学療法はきついし、そうなれば諦めるしかないかと思っていたので
ほんとうによかった。
切り取った癌の画像も見せていただきましたが
周辺リンパを合わせて20cmの大きさで、重さでいうと1kgほどを摘出したと言う。
こんな大量のものをお腹の4cmの切り口から取り出すなんてすごい。
切除した腸の接着が問題なく
人工肛門の心配もなくなりました。
ガンの切除
リンパの転移
人工肛門
この3つをすべてクリアできて、先生方が丁寧に手術していただいたおかげで
感謝しかありません。
母は毎日残さず食事もとれるようになったのですが
先生からは「残さず食べなくていいです、これ以上太らないで」と注意を受けました。
母と、上の姉はまったく同じ体型で
お腹だけが中年のおじさんのようにぽっこり、それも妊婦かと思うほどで
どうしてあんなになったのか、七不思議。
手術の際も、先生がお腹の脂肪で腸まで届くのが大変だったと苦言もあり
リハビリ病院にいたときも、お腹が大きすぎて屈んだり腹筋を使うことが出来ないと言われました。
先生からは、お腹が大きくなったら皮がはちきれて、傷口ぱかっと開くこともありますよ!と
今後の注意を受け、
太っていると体に負担をかけていろんな病気になりやすく
何を食べてもいいけど、たべる量は気を付けてと説明され
きょう、退院のご挨拶のときにも
体重を増やさないように、太らないようにと再度注意をうけました。
私より10cm低いのに、わたしより体重あるし
はじめは気を付けても、すぐに忘れちゃうからなぁ
運動というのもしたことがないので、
もっと歩かないとといううものの、すり足が癖で、足を上げて歩くことが出来ず
あまり運動にはならないし。
昨年9月から始まった私の病院詣もやっと終わりましたが
腸が短くなった分、便意を我慢できずすぐ漏らしてしまう危険があり
肛門に数日チューブを入れていたため
肛門が緩くなって便意を感じないまま出ることがあり
日中ひとりではなかなか生活しづらいし
お出かけに付き添いも必要だろうし、実家通いが終わることはなさそうです。
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帰省。
関西に戻り、主人の実家に日帰りで帰ったのは結局1回だけ。
お正月2日の日に年始のあいさつに伺う予定だったのに
また泊まりか!
それも急に決まったため
義父が31日に病院から戻ってくる。
病院では昼ご飯をたべて夕方迎えに来てくださいと言われていたが
父から朝に家に帰りたいと連絡があったたため
主人が早朝実家へ帰りました。
私は、母の手術があったため家の掃除も洗濯もしてなくて
早朝から洗濯3回して、マットも全部洗い
ベランダ掃除、お風呂、洗面所を掃除して
床の水拭きだけして(窓はもう無理)
神棚も準備だけして
おせちのお重が13時前にとどき、それを冷蔵庫になんとか押し込んで
主人が打ってくれたソバをお昼に食べ
なんとかお正月を迎える準備完了させて
主人の実家へ移動しました。
もう、すでに疲れている。。。
家に帰ってきた父は、元気とはいえ
お腹大きくて動けないし、ソファーに座ったきり。
義母が生きていた頃、雑多だった実家も
義父は結構マメで、いつもきれいにしていて、新しい家電を次々買ったりして
生活空間としては暮らしやすくなっていたはずなのに
家は埃だらけで、あちこちに大量の服が脱ぎっぱなし
仏間も、いつも泊っていたいた客間も足の踏み場がなく、
毎年、7月末の母の命日に合わせて送っている花も
枯れた状態で、仏壇前にお供えしたまま。
7月末にお参り時に父とご飯に行った際は元気で
家もきれいに片付いていたのに
そのあとすぐ体調が悪くなって整理も出来なくなっていたのか。
これ、在宅看護とか無理だな。
とりあえず、仏間だけ片付けて掃除機かけて布団敷く準備はしたが
数回かけて家全部掃除しないとダメだ。
いつも父が鍋の用意やあれこれしてくれてたのに
そういう訳に行かないので
人の家の台所、ただでさえ使いにくいのに
とにかく汚い、ここで料理をするのか。。。
田舎なので、台所も広いだけあって極寒だし。
準備から片付けとか次々用事があって
結局、ガキ使も紅白もほとんど見られなかったし
見たいと思ってた『映像の世紀』も全く見られなかった。
そして、小学生以来だよ、大みそかなのに11時半には寝てしまった。
あーージャニースのカウコン予約しとけばよかった。。
カウントダウンCDも見たかった。。。
1日もお雑煮作るのに6時前から起きだし
おせちをいただいて、11時には早々にお暇しました。
(父が2日まで病院に帰らないと言うので主人は残った)
大阪に戻り、一旦自宅に戻ってお昼を食べて
あーーもう疲れて無理。
兵庫→大阪→ こんどは京都へ
母の病院へいくと、お昼に野菜や魚のお重がでて、全部食べることが出来たと
喜んでいました。
ご飯は3分がゆでしたが、おかずは柔らかく煮てあって
この状態でお重が出ると思ってなかったので
とてもうれしかったようです。
点滴もはずれて、明日には尿のチューブも外れるということで
とりあえず、大きな山は越えてほっとしました。
義父のほうは、新興宗教に嵌ったりして
その関係者が病院に出入りしてるのが気になって
母にも、こっちはいいから、向こうの病院に行って
お金持ち出されたりややこしい人が近づかないように
なるべくお父さんが目の届くところにいるようにと言われたが
京都の街中に簡単に行けるのと違って
大阪からでも2時間近くかかる。
なにしろ病院が駅から1時間に1回のバスで20分ほどかかるので
駅前でカーシェア借りていくのがいいのか。
JRの昼得も廃止されたせいで交通費だけで往復3000円かかる。
向こうの家は汚いし泊るのは嫌だし
困った困った。
義父には、在宅看護は無理だから病院に戻ってと主人が話してくれて
自分の父親を自宅で看取ったため
義父の気持ちはわかるので、なるべく在宅の方向でと私は考えていたけれど
家までのアクセスが病院よりさらに悪いし
この辺りは灯油を売りに来ないそうで
1日1回はガソスタまで車で灯油を買いにいって、補充しないといけないが
そんなん私には絶対無理なので
父には病院に戻るで納得してもらうしかない。
もう何もかも私には無理なことばかりで
わたしは、サラリーマンとして朝から夜遅くまで働いて
ご飯や洗濯するくらいの、世間のお父さんのようなことしかできず
介護や車で買い物行ってご飯作って、人の送り迎えしてという主婦にはなれないんです!
ほんとうに絶対無理だ、もう無理だ。
母の病院で2時間ほど話して、
毎年1月1日は、家族全員集まっての新年会に行くため
母を残して姉と病院を出た。
ことしは、母も主人も来れないため
5人という寂しい新年会。
やっぱり健康で家族がそろって食事をできるなんて
一番なによりも幸せなことだと思う。
来年は母も主人も参加できるだろう。
やっぱり元旦に家族で食事するのって
楽しいし、にぎやかだし疲れも吹き飛ぶ。
亡くなった父が、亡くなったその年の元旦のこの場で
「来年は自分は参加できないけど、自分がいなくても
毎年、元旦に皆で集まって、来年からは割り勘にして続けてください」と。
2日は母にも「病院にはいかない
ゆっくりひとりなので、一日TVみて寝てるから」と言ったので
きょうは、のんびりお正月です。
関西に戻り、主人の実家に日帰りで帰ったのは結局1回だけ。
お正月2日の日に年始のあいさつに伺う予定だったのに
また泊まりか!
それも急に決まったため
義父が31日に病院から戻ってくる。
病院では昼ご飯をたべて夕方迎えに来てくださいと言われていたが
父から朝に家に帰りたいと連絡があったたため
主人が早朝実家へ帰りました。
私は、母の手術があったため家の掃除も洗濯もしてなくて
早朝から洗濯3回して、マットも全部洗い
ベランダ掃除、お風呂、洗面所を掃除して
床の水拭きだけして(窓はもう無理)
神棚も準備だけして
おせちのお重が13時前にとどき、それを冷蔵庫になんとか押し込んで
主人が打ってくれたソバをお昼に食べ
なんとかお正月を迎える準備完了させて
主人の実家へ移動しました。
もう、すでに疲れている。。。
家に帰ってきた父は、元気とはいえ
お腹大きくて動けないし、ソファーに座ったきり。
義母が生きていた頃、雑多だった実家も
義父は結構マメで、いつもきれいにしていて、新しい家電を次々買ったりして
生活空間としては暮らしやすくなっていたはずなのに
家は埃だらけで、あちこちに大量の服が脱ぎっぱなし
仏間も、いつも泊っていたいた客間も足の踏み場がなく、
毎年、7月末の母の命日に合わせて送っている花も
枯れた状態で、仏壇前にお供えしたまま。
7月末にお参り時に父とご飯に行った際は元気で
家もきれいに片付いていたのに
そのあとすぐ体調が悪くなって整理も出来なくなっていたのか。
これ、在宅看護とか無理だな。
とりあえず、仏間だけ片付けて掃除機かけて布団敷く準備はしたが
数回かけて家全部掃除しないとダメだ。
いつも父が鍋の用意やあれこれしてくれてたのに
そういう訳に行かないので
人の家の台所、ただでさえ使いにくいのに
とにかく汚い、ここで料理をするのか。。。
田舎なので、台所も広いだけあって極寒だし。
準備から片付けとか次々用事があって
結局、ガキ使も紅白もほとんど見られなかったし
見たいと思ってた『映像の世紀』も全く見られなかった。
そして、小学生以来だよ、大みそかなのに11時半には寝てしまった。
あーージャニースのカウコン予約しとけばよかった。。
カウントダウンCDも見たかった。。。
1日もお雑煮作るのに6時前から起きだし
おせちをいただいて、11時には早々にお暇しました。
(父が2日まで病院に帰らないと言うので主人は残った)
大阪に戻り、一旦自宅に戻ってお昼を食べて
あーーもう疲れて無理。
兵庫→大阪→ こんどは京都へ
母の病院へいくと、お昼に野菜や魚のお重がでて、全部食べることが出来たと
喜んでいました。
ご飯は3分がゆでしたが、おかずは柔らかく煮てあって
この状態でお重が出ると思ってなかったので
とてもうれしかったようです。
点滴もはずれて、明日には尿のチューブも外れるということで
とりあえず、大きな山は越えてほっとしました。
義父のほうは、新興宗教に嵌ったりして
その関係者が病院に出入りしてるのが気になって
母にも、こっちはいいから、向こうの病院に行って
お金持ち出されたりややこしい人が近づかないように
なるべくお父さんが目の届くところにいるようにと言われたが
京都の街中に簡単に行けるのと違って
大阪からでも2時間近くかかる。
なにしろ病院が駅から1時間に1回のバスで20分ほどかかるので
駅前でカーシェア借りていくのがいいのか。
JRの昼得も廃止されたせいで交通費だけで往復3000円かかる。
向こうの家は汚いし泊るのは嫌だし
困った困った。
義父には、在宅看護は無理だから病院に戻ってと主人が話してくれて
自分の父親を自宅で看取ったため
義父の気持ちはわかるので、なるべく在宅の方向でと私は考えていたけれど
家までのアクセスが病院よりさらに悪いし
この辺りは灯油を売りに来ないそうで
1日1回はガソスタまで車で灯油を買いにいって、補充しないといけないが
そんなん私には絶対無理なので
父には病院に戻るで納得してもらうしかない。
もう何もかも私には無理なことばかりで
わたしは、サラリーマンとして朝から夜遅くまで働いて
ご飯や洗濯するくらいの、世間のお父さんのようなことしかできず
介護や車で買い物行ってご飯作って、人の送り迎えしてという主婦にはなれないんです!
ほんとうに絶対無理だ、もう無理だ。
母の病院で2時間ほど話して、
毎年1月1日は、家族全員集まっての新年会に行くため
母を残して姉と病院を出た。
ことしは、母も主人も来れないため
5人という寂しい新年会。
やっぱり健康で家族がそろって食事をできるなんて
一番なによりも幸せなことだと思う。
来年は母も主人も参加できるだろう。
やっぱり元旦に家族で食事するのって
楽しいし、にぎやかだし疲れも吹き飛ぶ。
亡くなった父が、亡くなったその年の元旦のこの場で
「来年は自分は参加できないけど、自分がいなくても
毎年、元旦に皆で集まって、来年からは割り勘にして続けてください」と。
2日は母にも「病院にはいかない
ゆっくりひとりなので、一日TVみて寝てるから」と言ったので
きょうは、のんびりお正月です。
母の手術が終わってほっとしたのもつかの間、
朝起きた主人が、いまから父の病院にいくという。
昨日、弟から連絡があり
父が入院し、末期がんで先がないという
医師から家族に病状説明があるということで
主人と一緒にあわてて病院にかけつけました。
父は昔の集団接種の影響で肝炎を患っていて
10年ほど前? 父からやっと寛かいしたと聞いていました。
先生の話では
肝炎に寛かいというのはなく、肝炎になると癌の発症率が高いため
定期的に健診しなくてはいけない
父も最初の2年ほどは半年に1度ほど検診に来ていたのに
あるときからばったり姿をみせなくなり
2年後、急に現れてそのときに肝臓に1cmの癌みつかり
場所がよくて切ればすぐに問題ないと言うことだったのに
それ以来ぱったり来なくなり、
2年前に急に検診に来た時に、6cmになっていて
いまなら手術できるし、命にかかわることもないと説明したものの
まったく姿を見せなくなり
今年の12月中旬に近くのクリニックにかかって病院に行くように言われ
ここに現れたが、癌は20cmで先生もいまだ見たことがない大きさで
腹水がたまっていて、血液が流れだしていて
お腹をさしたら血が噴き出すほどだった。
それをいくら説明しても本人は理解していなくて
前からガンにかかっていたことすらとぼけた様子で話にならない。
もういつ亡くなってもおかしくない状態で
長くて1ヶ月だという。
父は正月に家に帰りたいと言っているし
最後だから本人の好きにさせてあげてくださいと。
この先生の話をきいて
たしか6-7年前くらいからだったか
アムウェイではないけれど、おなじネズミで
洗剤やら歯磨き粉、食品を買いだして
私も買ってと勧められたが断って。
それ以外にも、寝る時の電気のマットやソファーなど
何百万もするようなものを買いだして
その時に
「兄が痴ほう症になって自分は気を付けないといけないと思った」から
まぁ父のお金だし、それで本人が健康になったとおもえばいいかと
思っていたけれど
いま思えば、癌と言われてそっちに走ったのか。
主人は「まだ若かったから切ればすぐ治ったのに、逃げただけ」と言ってるけれど
もしその時に切っていればなんとかなったかもしれないけれど
もう今死ぬ段階で、お知らせされても。。。
とりあえず年末父が家にかえるため
主人も実家へかえり、私も年末年始は向こうの家で過ごしますが
こっちも母のこともあるし
85歳の母がどうなるかわからない大手術をうけたのに
60代だった父がステージ1で運よく見つかった癌を放置していたことに
腹はたつし、情けないし。
こんなにバタバタしてゆっくりできない正月を送ることになるとは。。。
朝起きた主人が、いまから父の病院にいくという。
昨日、弟から連絡があり
父が入院し、末期がんで先がないという
医師から家族に病状説明があるということで
主人と一緒にあわてて病院にかけつけました。
父は昔の集団接種の影響で肝炎を患っていて
10年ほど前? 父からやっと寛かいしたと聞いていました。
先生の話では
肝炎に寛かいというのはなく、肝炎になると癌の発症率が高いため
定期的に健診しなくてはいけない
父も最初の2年ほどは半年に1度ほど検診に来ていたのに
あるときからばったり姿をみせなくなり
2年後、急に現れてそのときに肝臓に1cmの癌みつかり
場所がよくて切ればすぐに問題ないと言うことだったのに
それ以来ぱったり来なくなり、
2年前に急に検診に来た時に、6cmになっていて
いまなら手術できるし、命にかかわることもないと説明したものの
まったく姿を見せなくなり
今年の12月中旬に近くのクリニックにかかって病院に行くように言われ
ここに現れたが、癌は20cmで先生もいまだ見たことがない大きさで
腹水がたまっていて、血液が流れだしていて
お腹をさしたら血が噴き出すほどだった。
それをいくら説明しても本人は理解していなくて
前からガンにかかっていたことすらとぼけた様子で話にならない。
もういつ亡くなってもおかしくない状態で
長くて1ヶ月だという。
父は正月に家に帰りたいと言っているし
最後だから本人の好きにさせてあげてくださいと。
この先生の話をきいて
たしか6-7年前くらいからだったか
アムウェイではないけれど、おなじネズミで
洗剤やら歯磨き粉、食品を買いだして
私も買ってと勧められたが断って。
それ以外にも、寝る時の電気のマットやソファーなど
何百万もするようなものを買いだして
その時に
「兄が痴ほう症になって自分は気を付けないといけないと思った」から
まぁ父のお金だし、それで本人が健康になったとおもえばいいかと
思っていたけれど
いま思えば、癌と言われてそっちに走ったのか。
主人は「まだ若かったから切ればすぐ治ったのに、逃げただけ」と言ってるけれど
もしその時に切っていればなんとかなったかもしれないけれど
もう今死ぬ段階で、お知らせされても。。。
とりあえず年末父が家にかえるため
主人も実家へかえり、私も年末年始は向こうの家で過ごしますが
こっちも母のこともあるし
85歳の母がどうなるかわからない大手術をうけたのに
60代だった父がステージ1で運よく見つかった癌を放置していたことに
腹はたつし、情けないし。
こんなにバタバタしてゆっくりできない正月を送ることになるとは。。。
手術の2日前に京大に入院しました。
入院してからは、外科の先生からの説明があり
開腹でなく、腹腔鏡でするとの話で
1時間ほど時間は余分にかかるが、体力的に問題なく
術後の回復がぜんぜん楽なので、という話でした。
これをきいて、あー死ぬのかなぁとおもっていた気持ちがうんと楽になりました。
5mmの穴を2つ、1.5mmの穴を2つ、
切除した腸を取り除くためにおへその下を4cm
先生曰く、ちょっとした切り傷でも痛いから、術後はやっぱり痛いですが
痛みどめの点滴をするから大丈夫ということでした。
可能性もあるということで、人工肛門の説明をうけて
母も私もショックを隠せませんでした。
手術当日は、母は3時まで眠れなかったそうで
私も亡くなった父を思い出したりして、ほとんど眠れず朝の4時には布団から出てしまいました。
朝の挨拶に先生が病室に来られて
いつものように明るく励ましていただき、すこし安心したものの
母が手術室に入るときには
「絶対もどって来なあかんで、絶対戻ってきてや」と
もうこれが母と最期の会話になるかもしれないと涙が止まりませんでいた。
午後3時を過ぎて、手術室から戻ってきた母は
思っていたより意識もしっかりしていて
人工肛門にもならず、リンパに転移しているかは結果に10日ほどかかるということでした。
腸閉塞で手術室に入ったままもどって来れなかった伯母が
助けてくれたのかなぁ
父のお墓にも、伯母のお墓にも、祖父母のお墓にも
石きりさんにも行った、
みんなが守ってくれたおかげです。
翌日の朝も傷の痛みは体を動かしたときくらいで
お腹空いてしにそう、水が早く飲みたい!といつもの母で
看護師さんが歩かせてくれても
お腹すきすぎて倒れそう、無理無理と言いながらも自分の足で歩いていました。
これで10日ほど、切除した腸がきちんと接合されて
便がもれてこなければ人口肛門の心配もなくなります。
京大の先生方は
消化器内科の先生も、外科の先生方も
とにかく説明が丁寧で、わかりやすく、こちらの質問にも真摯に答えてくれて
安心して手術が受けられました。
姉が、父が京大で受診していたら、癌の手術も受けて
いまでも元気でぴんぴんしていたのにと
90歳くらいのお年寄りを見るたびに
父が元気でいられるはずだったのに悔しいと言います。
私も父があんな病院で
高圧的で患者をバカにする酷い態度で
あそこにかからなけれぼ父はいまも元気にくらしていただろうに
京大でみてもらえた母は本当に幸運だったと思います。
入院してからは、外科の先生からの説明があり
開腹でなく、腹腔鏡でするとの話で
1時間ほど時間は余分にかかるが、体力的に問題なく
術後の回復がぜんぜん楽なので、という話でした。
これをきいて、あー死ぬのかなぁとおもっていた気持ちがうんと楽になりました。
5mmの穴を2つ、1.5mmの穴を2つ、
切除した腸を取り除くためにおへその下を4cm
先生曰く、ちょっとした切り傷でも痛いから、術後はやっぱり痛いですが
痛みどめの点滴をするから大丈夫ということでした。
可能性もあるということで、人工肛門の説明をうけて
母も私もショックを隠せませんでした。
手術当日は、母は3時まで眠れなかったそうで
私も亡くなった父を思い出したりして、ほとんど眠れず朝の4時には布団から出てしまいました。
朝の挨拶に先生が病室に来られて
いつものように明るく励ましていただき、すこし安心したものの
母が手術室に入るときには
「絶対もどって来なあかんで、絶対戻ってきてや」と
もうこれが母と最期の会話になるかもしれないと涙が止まりませんでいた。
午後3時を過ぎて、手術室から戻ってきた母は
思っていたより意識もしっかりしていて
人工肛門にもならず、リンパに転移しているかは結果に10日ほどかかるということでした。
腸閉塞で手術室に入ったままもどって来れなかった伯母が
助けてくれたのかなぁ
父のお墓にも、伯母のお墓にも、祖父母のお墓にも
石きりさんにも行った、
みんなが守ってくれたおかげです。
翌日の朝も傷の痛みは体を動かしたときくらいで
お腹空いてしにそう、水が早く飲みたい!といつもの母で
看護師さんが歩かせてくれても
お腹すきすぎて倒れそう、無理無理と言いながらも自分の足で歩いていました。
これで10日ほど、切除した腸がきちんと接合されて
便がもれてこなければ人口肛門の心配もなくなります。
京大の先生方は
消化器内科の先生も、外科の先生方も
とにかく説明が丁寧で、わかりやすく、こちらの質問にも真摯に答えてくれて
安心して手術が受けられました。
姉が、父が京大で受診していたら、癌の手術も受けて
いまでも元気でぴんぴんしていたのにと
90歳くらいのお年寄りを見るたびに
父が元気でいられるはずだったのに悔しいと言います。
私も父があんな病院で
高圧的で患者をバカにする酷い態度で
あそこにかからなけれぼ父はいまも元気にくらしていただろうに
京大でみてもらえた母は本当に幸運だったと思います。
その後、外科の先生の外来で説明を受けました。
とても丁寧にわかりやすく説明していただき
朗らかな先生で、
消化器内科の診察に来ていなくて話を聞いてなかったため手術に懐疑的だった次姉も
外科の先生の説明を聞いて、
手術しようと、母も切ったら治るならというし
手術をお願いすることになりました。
手術は1月末まで空きがないけれど、急ぎのほうがいいから、
どこかに入れますということでした。
手術が年末にきまりました。
京大に入院するため、リハビリ病院を退院し、12月11日に3か月ぶりに家に帰ってきた母は
嬉しそうでした。
手術までの短い帰宅で、入院すれば2度と帰ってこれないかもしれない。
母のリクエストで、父のお墓に連れて行き、久しぶりに買い物にも車で連れて行きましたが
3か月入院していたとは思えないほど体力も戻っていて安心しました。
主人が休日に車で、出来ものの神様「石切りさん」に母を連れて行ってくれました。
そこでお払いもしてもらい、
私と次姉の2人で母方の祖父母と伯母のお墓にも行ってきました。
そして手術の2日前に入院しました。
とても丁寧にわかりやすく説明していただき
朗らかな先生で、
消化器内科の診察に来ていなくて話を聞いてなかったため手術に懐疑的だった次姉も
外科の先生の説明を聞いて、
手術しようと、母も切ったら治るならというし
手術をお願いすることになりました。
手術は1月末まで空きがないけれど、急ぎのほうがいいから、
どこかに入れますということでした。
手術が年末にきまりました。
京大に入院するため、リハビリ病院を退院し、12月11日に3か月ぶりに家に帰ってきた母は
嬉しそうでした。
手術までの短い帰宅で、入院すれば2度と帰ってこれないかもしれない。
母のリクエストで、父のお墓に連れて行き、久しぶりに買い物にも車で連れて行きましたが
3か月入院していたとは思えないほど体力も戻っていて安心しました。
主人が休日に車で、出来ものの神様「石切りさん」に母を連れて行ってくれました。
そこでお払いもしてもらい、
私と次姉の2人で母方の祖父母と伯母のお墓にも行ってきました。
そして手術の2日前に入院しました。
関西に戻ってきて2回目の年の暮れです。
3月に大阪に引越しし初めての大阪の生活。
梅田は近くて便利なんだけど、
最初は地下がぜんぜんわからず、JR大阪駅からすぐの阪急百貨店や阪神百貨店でさえ
すごい大回りしてしまったり、
TOHOシネマズが見えてるのに、どこにあるのかわからなかったり
新梅田シティに行きたいのにどこに道があってどうやっていくのか
まったくわからず、随分迷ったり
さすがに梅田に関してはどこに何があるのか、もう大丈夫。
そして難波や心斎橋も大丈夫。
今年は、
大阪北部地震、地震3度目の震災、
台風21号、ほんとうにもう自然災害って怖い。
8月に酷暑を抜けだし18年ぶりのハワイ旅行。
今年の大阪の暑さときたら
ほんとうに暑くて外に出られず、連日40度越えていた。
亡くなった父が「ハワイは涼しいから好き」とよく家族で行っていたけれど
今年こそこの言葉が当てはまる。
ほんとうに「ハワイは涼しい」30度くらいしかないから
全然暑さを感じなかった。
一日外で遊べたおかげで帰ってきたときには、全身まっくろに焦げていた。
9月に念願のUSJに行き、ハリーポッターの世界を満喫。
お気楽で楽しい生活を満喫も
9月以降は、母が入院して生活は一変し、
毎日の病院通いで正直つかれたけれど、
入院中に大腸がんがみつかり、年末に手術をします。
85歳の母に手術をするという選択が正しかったのかどうかは分かりません。
いまは母同様に、自分も不安でいっぱいです。
手術室に入ってもう戻ってこれない可能性もあります。
それでも先生を信じて、母の体力気力を信じるしかありません。
家族みんなが笑顔で新年を迎えられますように。。
3月に大阪に引越しし初めての大阪の生活。
梅田は近くて便利なんだけど、
最初は地下がぜんぜんわからず、JR大阪駅からすぐの阪急百貨店や阪神百貨店でさえ
すごい大回りしてしまったり、
TOHOシネマズが見えてるのに、どこにあるのかわからなかったり
新梅田シティに行きたいのにどこに道があってどうやっていくのか
まったくわからず、随分迷ったり
さすがに梅田に関してはどこに何があるのか、もう大丈夫。
そして難波や心斎橋も大丈夫。
今年は、
大阪北部地震、地震3度目の震災、
台風21号、ほんとうにもう自然災害って怖い。
8月に酷暑を抜けだし18年ぶりのハワイ旅行。
今年の大阪の暑さときたら
ほんとうに暑くて外に出られず、連日40度越えていた。
亡くなった父が「ハワイは涼しいから好き」とよく家族で行っていたけれど
今年こそこの言葉が当てはまる。
ほんとうに「ハワイは涼しい」30度くらいしかないから
全然暑さを感じなかった。
一日外で遊べたおかげで帰ってきたときには、全身まっくろに焦げていた。
9月に念願のUSJに行き、ハリーポッターの世界を満喫。
お気楽で楽しい生活を満喫も
9月以降は、母が入院して生活は一変し、
毎日の病院通いで正直つかれたけれど、
入院中に大腸がんがみつかり、年末に手術をします。
85歳の母に手術をするという選択が正しかったのかどうかは分かりません。
いまは母同様に、自分も不安でいっぱいです。
手術室に入ってもう戻ってこれない可能性もあります。
それでも先生を信じて、母の体力気力を信じるしかありません。
家族みんなが笑顔で新年を迎えられますように。。
リハビリ病院に入って1ヶ月ほど経った頃から
血便が出るようになり
担当の先生からお話がありました。
「リンパが腫れている、大腸に癌があってリンパに転移している可能性がある」とのことでした。
検査のために先生が京大に予約をとってくださり
母には、血便の検査のため
私が定期的に受けている大腸ポリープの検査と同じものを受けると話しました。
大腸がん検査の結果
結構大きなガンが見られました。
画像をみてびっくりするほどです、
私は自分の大腸は検査の時に見ているので、自分の大腸と母の大腸とは明らかに違うものでした。
消化器内科の先生は患部を切除すると問題ないとおっしゃるし
このままだと、腸閉そくをいつ起こしてもおかしくないということでした。
母の姉(伯母)が亡くなって7年。腸閉そくでした。
とても元気だったし、お腹が痛いと倒れて救急車を呼んだ時も
自分の足で歩いて救急車に乗ったのに、手術室から出てきたときは
チューブ人間になっていて、そのまま1か月意識のないまま
機械に行かされた状態のまま亡くなりました。
母も私たちも伯母の苦しそうな顔、体は冷蔵庫のように冷たく、
ぱんぱんにむくんで寝かされているだけの伯母の姿をみているのに
まったく同じ病気に母がなってしまった。
ショックで、あーー死んでしまうのかと。
先生曰く、実際見てないからわからないけれど
大腸がんの末期で腸閉そく起こしたんじゃないかと。
先生のお話はとても丁寧で絵と文章に説明をかいてくれて、安心できるものでした。
家に帰って調べると、
長生きすればするほど癌になる確率は高くなり、死因のTOPも癌で
大腸がんも80代の8割は手術をするとのこと。
手術しなくて、全身に癌が広がって苦しんだり
腸閉そくになって、伯母のようにチューブ人間となって苦しい記憶だけで死んでいったりするより、患部を切除する方がいいんじゃないかと、姉と手術の方向に決めました。
手術は腹腔鏡でと聞いたところ、腹腔鏡は開腹とくらべ時間がかかるので
80代の体では耐えられないかもしれないので開腹ではないか?と消化器内科の先生の説明でした。
手術しても、命を落とすかもしれないし
チューブ人間になるかもしれないし
手術前のように元気に食べて、買い物に行って、という普通に生活が出来なくなるほど
弱ってしまうのではないか
と不安はつきません。
血便が出るようになり
担当の先生からお話がありました。
「リンパが腫れている、大腸に癌があってリンパに転移している可能性がある」とのことでした。
検査のために先生が京大に予約をとってくださり
母には、血便の検査のため
私が定期的に受けている大腸ポリープの検査と同じものを受けると話しました。
大腸がん検査の結果
結構大きなガンが見られました。
画像をみてびっくりするほどです、
私は自分の大腸は検査の時に見ているので、自分の大腸と母の大腸とは明らかに違うものでした。
消化器内科の先生は患部を切除すると問題ないとおっしゃるし
このままだと、腸閉そくをいつ起こしてもおかしくないということでした。
母の姉(伯母)が亡くなって7年。腸閉そくでした。
とても元気だったし、お腹が痛いと倒れて救急車を呼んだ時も
自分の足で歩いて救急車に乗ったのに、手術室から出てきたときは
チューブ人間になっていて、そのまま1か月意識のないまま
機械に行かされた状態のまま亡くなりました。
母も私たちも伯母の苦しそうな顔、体は冷蔵庫のように冷たく、
ぱんぱんにむくんで寝かされているだけの伯母の姿をみているのに
まったく同じ病気に母がなってしまった。
ショックで、あーー死んでしまうのかと。
先生曰く、実際見てないからわからないけれど
大腸がんの末期で腸閉そく起こしたんじゃないかと。
先生のお話はとても丁寧で絵と文章に説明をかいてくれて、安心できるものでした。
家に帰って調べると、
長生きすればするほど癌になる確率は高くなり、死因のTOPも癌で
大腸がんも80代の8割は手術をするとのこと。
手術しなくて、全身に癌が広がって苦しんだり
腸閉そくになって、伯母のようにチューブ人間となって苦しい記憶だけで死んでいったりするより、患部を切除する方がいいんじゃないかと、姉と手術の方向に決めました。
手術は腹腔鏡でと聞いたところ、腹腔鏡は開腹とくらべ時間がかかるので
80代の体では耐えられないかもしれないので開腹ではないか?と消化器内科の先生の説明でした。
手術しても、命を落とすかもしれないし
チューブ人間になるかもしれないし
手術前のように元気に食べて、買い物に行って、という普通に生活が出来なくなるほど
弱ってしまうのではないか
と不安はつきません。
足の骨折手術をした病院を出ることになったものの
古い戸建で生活するにはまだまだ難しいため
リハビリ専門病院に転院しました。
4月に出来たばかりの病院で、京大と変わらぬほどきれいで
談話室もあるし、部屋もきれいで
リハビリの先生が付いてくれて1日3回それぞれ1時間。
ここに移って
まったく食事に手を付けなかった母が、残さず食事をとるようになりました。
相変わらず毎日病院に行く日々がつづいたものの
食事の心配がなくなったため
絶対にランチに間に合うように病院にいく必要がなくなったため
午前中、家で用事もできるし買い物にもいけるし
晩御飯まで待たずに家に帰れるようになったので
母以上に私の生活のストレスがなくなりました。
同室の人と談話室で食事をとったり、TVを一緒にみたり
リハビリの先生たちと毎日会話する楽しみもあって
早く家に帰りたいと言いながらも
以前家にいたときよりも元気そうで
杖をついてスタスタと歩けるようになりました。
おかけで9月から毎日病院へ通っていた私も
用事があるときは、病院に行かない日も出来ました。
古い戸建で生活するにはまだまだ難しいため
リハビリ専門病院に転院しました。
4月に出来たばかりの病院で、京大と変わらぬほどきれいで
談話室もあるし、部屋もきれいで
リハビリの先生が付いてくれて1日3回それぞれ1時間。
ここに移って
まったく食事に手を付けなかった母が、残さず食事をとるようになりました。
相変わらず毎日病院に行く日々がつづいたものの
食事の心配がなくなったため
絶対にランチに間に合うように病院にいく必要がなくなったため
午前中、家で用事もできるし買い物にもいけるし
晩御飯まで待たずに家に帰れるようになったので
母以上に私の生活のストレスがなくなりました。
同室の人と談話室で食事をとったり、TVを一緒にみたり
リハビリの先生たちと毎日会話する楽しみもあって
早く家に帰りたいと言いながらも
以前家にいたときよりも元気そうで
杖をついてスタスタと歩けるようになりました。
おかけで9月から毎日病院へ通っていた私も
用事があるときは、病院に行かない日も出来ました。
京大で快適できれいな病室とは一変して。
移送先の病院は、
昭和か!
というほどボロくて
部屋の壁も白壁でところどころ禿げてるし
いまどき引き戸じゃない病院ってある?
狭くて暗い廊下にはものが色々置いてあってさらに狭く。。。
私が一番大変だったのは
京大は、談話室があってTVもみられるし、ご飯も食べられる
下に降りればレストランもあり、カフェもコンビニもあり
時間つぶすのに困らなかった、
ここは病室もせまく、面会者が座るスペースもほとんどなく
談話室もない。
食事ができるとこがないので
最初は、外に食べに行ってたけど
毎日だと不経済だし、飽きるので
結局お弁当を作って持って行って食べる日々。
面会者用トイレも男女兼用で汚れていて
わざわざ道路を超えた京大まで行って用を足していました。
そして病院食が
昭和か! いまどきの刑務所の方がいいのではないか?
母は全く手をつけないため、
昼、夜分のおかずを作っていったり
食べたいというものを買って行ったり
そのため11時半には病院につかなくてはいけないので
毎日、会社勤めのように
お弁当つくって、電車で通勤。
自分のことが全く何もできず、ストレスの毎日が始まりました。
それでもこの病院は手術の腕は確かという評判通り
寝たきりになるかも、という心配もなく
同室のおばちゃんたちとも会話できるようになって
3週間で退院しました。
移送先の病院は、
昭和か!
というほどボロくて
部屋の壁も白壁でところどころ禿げてるし
いまどき引き戸じゃない病院ってある?
狭くて暗い廊下にはものが色々置いてあってさらに狭く。。。
私が一番大変だったのは
京大は、談話室があってTVもみられるし、ご飯も食べられる
下に降りればレストランもあり、カフェもコンビニもあり
時間つぶすのに困らなかった、
ここは病室もせまく、面会者が座るスペースもほとんどなく
談話室もない。
食事ができるとこがないので
最初は、外に食べに行ってたけど
毎日だと不経済だし、飽きるので
結局お弁当を作って持って行って食べる日々。
面会者用トイレも男女兼用で汚れていて
わざわざ道路を超えた京大まで行って用を足していました。
そして病院食が
昭和か! いまどきの刑務所の方がいいのではないか?
母は全く手をつけないため、
昼、夜分のおかずを作っていったり
食べたいというものを買って行ったり
そのため11時半には病院につかなくてはいけないので
毎日、会社勤めのように
お弁当つくって、電車で通勤。
自分のことが全く何もできず、ストレスの毎日が始まりました。
それでもこの病院は手術の腕は確かという評判通り
寝たきりになるかも、という心配もなく
同室のおばちゃんたちとも会話できるようになって
3週間で退院しました。
京大での入院生活がはじまり、私の生活も一変。
2日目に、
先生、足が痛いって歩けないんです。
骨折はしてないけど、すごく痛がって、といったところ
CTで確認してくださり、
なんと骨折していることが判明!
最初に救急にきたときにとったレントゲンでは微妙でわからなかったんでは
ということでした。
整形の先生曰く「痛いならちゃんと痛いと言ってくれればCT撮って確認したのに」と言われた。
うちの母は、いつも早く帰りたいのがあって
「大丈夫です」とすぐに言うから。。。
というわけで、急に動くの禁止になって、ベッドに寝たきりに。
おまけに骨折してから動いていたので、どうやらちょっとひどいことになってるようで。
石の治療よりも足の方が緊急で、すぐに手術が必要ですとなった。
ただし、京大では出来ないため、骨折の手術専用病院に移されることになり
相手側病院が空き次第、移動と言うことになりました。
足が治ったら、また泌尿器に入院してくださいと、移送されることになりました。
2日目に、
先生、足が痛いって歩けないんです。
骨折はしてないけど、すごく痛がって、といったところ
CTで確認してくださり、
なんと骨折していることが判明!
最初に救急にきたときにとったレントゲンでは微妙でわからなかったんでは
ということでした。
整形の先生曰く「痛いならちゃんと痛いと言ってくれればCT撮って確認したのに」と言われた。
うちの母は、いつも早く帰りたいのがあって
「大丈夫です」とすぐに言うから。。。
というわけで、急に動くの禁止になって、ベッドに寝たきりに。
おまけに骨折してから動いていたので、どうやらちょっとひどいことになってるようで。
石の治療よりも足の方が緊急で、すぐに手術が必要ですとなった。
ただし、京大では出来ないため、骨折の手術専用病院に移されることになり
相手側病院が空き次第、移動と言うことになりました。
足が治ったら、また泌尿器に入院してくださいと、移送されることになりました。
ここ1年ほど、月に1回程度、つかれると風邪をひいて熱を出すので
かかりつけの医院の先生が、
熱があるときに病院に来るのは大変だからと
解熱剤と抗生物質を処方してくれて
熱が出ると、それを飲んでいたようです。
今年は年明けから発熱して寝込んでいて
それをきっかけに倒れたりして、1月から京大病院に定期的に通っていました。
9月の頭に熱がでて、昼間は一人のため
熱が出ると、夕方姉が帰ってくるまで、私が母の面倒をみるというのが
いつものパターンで。
熱があったせいか、夜にトイレに行ったときに滑って
頭をきつく打って、足も痛くて
夜中に姉が救急車を呼んでみてもらいました。
頭はいまのところ大丈夫だが、急変したらまた来てと言われ
足も骨折していないそうで、朝方には家に帰ってきました。
とはいうものの痛い痛いで全然あるけず
お昼は私がいるものの、トイレに連れていくのも大変で
車いすを借りてきて、近所の整形に連れて行ったところ
鎮痛剤をもらい帰ってきました。
鎮痛剤が効いたのか、2日くらいでなんとか支えればトイレに行けるようになったものの
老人介護ってこんなに大変なのかと実感。
足痛いって言ってる人を起こしたり支えたり
もう私ひとりじゃ出来ないし!
3日目くらいで、夕方姉が仕事から戻ってきて
私は家に戻ろうとしたところ
急に、ほんとに急に母がけいれんし始めて、
姉も私もパニックになり、とりあえず救急車をよび、京大病院に運ばれました。
いろいろ検査してもらい
腎盂結石ということがわかり、石は大きく1年以上はあっただろうと。
定期的に発熱していたのもこれが原因で
抗生物質をのんだら、とりあえず熱は下がるとのことですが
1ヶ月くらいは入院かなぁとなり、この日から入院生活になりました。
ずっと内科に定期的に通っていたのに
結局わからなかったのか?
頻繁に発熱していたのに、先生は風邪だと思っていたんだろうか?
やっぱり町医者は通っているだけで、ダメだったんだなぁ。
という訳で
9月中旬からの入院生活が始まりました
かかりつけの医院の先生が、
熱があるときに病院に来るのは大変だからと
解熱剤と抗生物質を処方してくれて
熱が出ると、それを飲んでいたようです。
今年は年明けから発熱して寝込んでいて
それをきっかけに倒れたりして、1月から京大病院に定期的に通っていました。
9月の頭に熱がでて、昼間は一人のため
熱が出ると、夕方姉が帰ってくるまで、私が母の面倒をみるというのが
いつものパターンで。
熱があったせいか、夜にトイレに行ったときに滑って
頭をきつく打って、足も痛くて
夜中に姉が救急車を呼んでみてもらいました。
頭はいまのところ大丈夫だが、急変したらまた来てと言われ
足も骨折していないそうで、朝方には家に帰ってきました。
とはいうものの痛い痛いで全然あるけず
お昼は私がいるものの、トイレに連れていくのも大変で
車いすを借りてきて、近所の整形に連れて行ったところ
鎮痛剤をもらい帰ってきました。
鎮痛剤が効いたのか、2日くらいでなんとか支えればトイレに行けるようになったものの
老人介護ってこんなに大変なのかと実感。
足痛いって言ってる人を起こしたり支えたり
もう私ひとりじゃ出来ないし!
3日目くらいで、夕方姉が仕事から戻ってきて
私は家に戻ろうとしたところ
急に、ほんとに急に母がけいれんし始めて、
姉も私もパニックになり、とりあえず救急車をよび、京大病院に運ばれました。
いろいろ検査してもらい
腎盂結石ということがわかり、石は大きく1年以上はあっただろうと。
定期的に発熱していたのもこれが原因で
抗生物質をのんだら、とりあえず熱は下がるとのことですが
1ヶ月くらいは入院かなぁとなり、この日から入院生活になりました。
ずっと内科に定期的に通っていたのに
結局わからなかったのか?
頻繁に発熱していたのに、先生は風邪だと思っていたんだろうか?
やっぱり町医者は通っているだけで、ダメだったんだなぁ。
という訳で
9月中旬からの入院生活が始まりました
結婚してすぐの頃、今は亡き海浜幕張のカルフールで
グリル鍋を購入。2500円くらいだったと思う。
オープン当時のカルフールは、14号線に数ある量販店の中で
家電は、結構最安値で買うことができて
それまでは、カセットコンロと土鍋を使っていたのに
それ以降、ずーっとグリル鍋。
冬の間は週に数度使うほどヘビーローテーション。
結構小さいように見えて、2人家族なので十分で
18年近く使って、底もテフロンがはげて
雑炊すると焦げ付くようになり。
大阪に引越す際に、とうとう捨ててしまいました。
電器屋に買いに行って、結局おなじ品番買ってきました。
コンパクトで軽い。
温度調節がついてるにもかかわらず全く温度調節はできないので
他の方にはお勧めできませんが、
その1点をのぞいては気にいっています。
最近のって、厚みがあって何枚も鍋ついてるけどそんな機能もいらない。

グリル鍋を購入。2500円くらいだったと思う。
オープン当時のカルフールは、14号線に数ある量販店の中で
家電は、結構最安値で買うことができて
それまでは、カセットコンロと土鍋を使っていたのに
それ以降、ずーっとグリル鍋。
冬の間は週に数度使うほどヘビーローテーション。
結構小さいように見えて、2人家族なので十分で
18年近く使って、底もテフロンがはげて
雑炊すると焦げ付くようになり。
大阪に引越す際に、とうとう捨ててしまいました。
電器屋に買いに行って、結局おなじ品番買ってきました。
コンパクトで軽い。
温度調節がついてるにもかかわらず全く温度調節はできないので
他の方にはお勧めできませんが、
その1点をのぞいては気にいっています。
最近のって、厚みがあって何枚も鍋ついてるけどそんな機能もいらない。
関西にもどってきて、いろんな友達と会ってるんだけれど
一人だけ連絡のつかない子がいて
もともと携帯の電話もメールも知ってたけど
ある時(15年くらいまえ)急に電話もメールもつながらなくなり
当時はMNPというシステムがなかったため
キャリア変更すると電話番号が変わってしまい
その時に変更しましたというお知らせがないと、そのままになってしまう。
年賀状だけはやり取りしていて
毎年、自分の携帯とメアドを書いた上で「連絡先おしえて」と書いていたのに
まったく連絡が来なくて
私が関西に戻ってから、大学のともだちと定期的に会うたびに
「ねぇ、○○どうしてる?」とか「連絡とってる?」とか言われても
「しらんがな」というしかなく
他の人も連絡取っていない状態で、
それが今年の年賀状にいきなり携帯の電話とメアドが書いてあって
普段年賀状に全くなにもコメントないのに
「1月に手術をします、また会いたいですね」とあって
あーーこれは嫌な予感だ。。。
3月末に大学の友達の20人ほどの集まりがあった時にも
「どうしてるんだろう」という話が出て
手術のことはいわずに「連絡先わかったからそろそろ連絡してみる」と
4月に連絡を取ったところ
1月に手術をして退院したが、いまだ家は出られない状態だという。
夏ごろあえるという返信を貰ったので
8月に連絡したら、都合のよい日に連絡すると言われたきり音信不通。
9月の頭に大学の友達とお茶したときに
どういう状態かは分からないけど連絡してみたほうがいいと言われ
連絡したら、意外に元気そうでランチの約束をした。
にもかかわらず、近々になって母親の手術と重なって
キャンセルしようと思ったところ
姉から「これが会う最後になるかもわからないから、会っておいたほうがいい」と言われ
ほんとうに私の結婚式以来に会いました。
手術はほんとうに命にかかわるものだったそうで
年賀状をおくったときは、何を誰にかいたかも覚えてなかったと。
でもすごい元気そうで、パートの仕事も秋からはじめるとのこと。
家の近く(奈良)まで行くよとといったけど
たまには大阪にでるよと言われ、難波で会いました。
お店は、難波で働いてる友達にお勧めしてもらった
高島屋の中の店舗にしました
元気そうなのでほんとうに安心。
そして大学のときの他の子の近況もまったくわからないということでしたが
みんなが会いたがっているから、つぎから声かけるねといって別れました。
大病をするような年齢になってしまい
こうして会える機会に無理してでもあいたいと実感しました。
一人だけ連絡のつかない子がいて
もともと携帯の電話もメールも知ってたけど
ある時(15年くらいまえ)急に電話もメールもつながらなくなり
当時はMNPというシステムがなかったため
キャリア変更すると電話番号が変わってしまい
その時に変更しましたというお知らせがないと、そのままになってしまう。
年賀状だけはやり取りしていて
毎年、自分の携帯とメアドを書いた上で「連絡先おしえて」と書いていたのに
まったく連絡が来なくて
私が関西に戻ってから、大学のともだちと定期的に会うたびに
「ねぇ、○○どうしてる?」とか「連絡とってる?」とか言われても
「しらんがな」というしかなく
他の人も連絡取っていない状態で、
それが今年の年賀状にいきなり携帯の電話とメアドが書いてあって
普段年賀状に全くなにもコメントないのに
「1月に手術をします、また会いたいですね」とあって
あーーこれは嫌な予感だ。。。
3月末に大学の友達の20人ほどの集まりがあった時にも
「どうしてるんだろう」という話が出て
手術のことはいわずに「連絡先わかったからそろそろ連絡してみる」と
4月に連絡を取ったところ
1月に手術をして退院したが、いまだ家は出られない状態だという。
夏ごろあえるという返信を貰ったので
8月に連絡したら、都合のよい日に連絡すると言われたきり音信不通。
9月の頭に大学の友達とお茶したときに
どういう状態かは分からないけど連絡してみたほうがいいと言われ
連絡したら、意外に元気そうでランチの約束をした。
にもかかわらず、近々になって母親の手術と重なって
キャンセルしようと思ったところ
姉から「これが会う最後になるかもわからないから、会っておいたほうがいい」と言われ
ほんとうに私の結婚式以来に会いました。
手術はほんとうに命にかかわるものだったそうで
年賀状をおくったときは、何を誰にかいたかも覚えてなかったと。
でもすごい元気そうで、パートの仕事も秋からはじめるとのこと。
家の近く(奈良)まで行くよとといったけど
たまには大阪にでるよと言われ、難波で会いました。
お店は、難波で働いてる友達にお勧めしてもらった
高島屋の中の店舗にしました
元気そうなのでほんとうに安心。
そして大学のときの他の子の近況もまったくわからないということでしたが
みんなが会いたがっているから、つぎから声かけるねといって別れました。
大病をするような年齢になってしまい
こうして会える機会に無理してでもあいたいと実感しました。
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start:2005年7月17日
プロフィール
HN:
momosuke
性別:
女性
自己紹介:
家にいる時は
だらだら、のんびり。主婦業もマイペースです。
(。'(ェ)'。)ノ.。・:*:・°'☆♪
*好きなもの*
本・映画・旅行・男前・テレビ・
大沢たかお
*着うた*
SMAP
だらだら、のんびり。主婦業もマイペースです。
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大沢たかお
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リラックマ時計

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今日は…
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